第5期(2013,2014-2024)IKEUCHI ORGANIC の誕生
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2011年8月タンザニア出張中にカンブリア宮殿から取材依頼が来て12月に放映がされると国内で劇的な知名度アップとなった。風で織るタオルが市場から消えるという大騒動は翌2012年の間ずっと続き、2013年の創業60周年を迎えた。国内では池内タオル、風で織るタオル、海外では ikt と3種のブランドが存在し、統一が必要な時期に来ていた。1999年、国内は池内タオル、2000年のアメリカ展開はikeuchitowel で始めたが、先に評価されたアメリカで ikeuchi はアイケウチと呼ばれ、誰もイケウチと呼ばないので 2001年に ikt とブランド名を変えた。これなら誰もがアイケイテイ。後にヨーロッパで展示会を始めるとラテン系にはイケテイと呼ばれたが笑って過ごした。こういう経緯の中でブランドの統一化を前提とする CI をナガオカケンメイ氏に迷わず依頼する。CIは前職のTECHNICS や四国タオル組合のSTIAでも経験しているが、絶対的な人に十分に要望を伝え、決まったことには絶対的な信頼を持って実行する事が肝と実感していたのです。弊社サイドの現状や希望を十分議論できて将来的な方向性を提示いただける自分にとって最高と信じれるプランナーに依頼したかったのです。想いを込めてお願いメールを出したら”何で僕?”と言う、そっけない返事でしたが、それがナガオカさんらしくて、熱意で納得して CI スタート。池内のお願い事項は①ブランドの統一②イケウチは外すでした。何度も何度も打合せと聴き取り、そして弊社や代表の生い立ち、習わしなどあらゆる情報の分析から最終的な提案は IKEUCHI ORGANIC そして I マーク。池内の考えるオーガニックは他とは違うイケウチ式なので池内のイケウチではないと説得される。最終提案は最初から受け入れる覚悟でいたので全てを信じてGO!でした。ブランドのお願いでしたが一層のこと社名もブランド名と一緒にしようと2013年も押し迫って決断し、決算期に合わせて3月1日社名変更の相変わらずの直感的判断となりました。イケウチ式とは精密なオーガニックという意味を込めています。I のトレードマークの黄色は一般的なオーガニックを連想させない色という事で選ばれており、そして I の上下はアールを描いており、思い切り拡大すると地球の一部分が I 。世界へ拡がると言う思いが込められております。イケウチ式オーガニックの I 、今治の I 、愛媛の I 、インターナショナルの I 。大きな夢を抱いて IKEUCHI ORGANIC はスタートしています。
アメリカンジョークだった赤ちゃんが食べれるタオル
2014年2月の New York の展示会に合わせて日本より一足早くアメリカのクライアントに社名をお披露目。パーテイの挨拶をアメリカンジョークで語ろうと飛行機の中で考えたのが、《池内タオルは60年かけて全てのタオルを赤ちゃんが舐めても大丈夫なタオルにしました。次の60年2073年までに赤ちゃんが食べれるタオルを創ります》。英語文はすっかり忘れてしまいましたが・・・。それがいつの間にか標語になってしまいました。
体験型ストアにしたい
青山のTOKYO STORE の設計にあたっては、ストアではタオルを使っていただいて好きなタオルが決まったら、色とサイズを選んでもらうというスタイルだけは決めていたので(出来ればシャワールームだったが水回りとスペースの関係で手を洗うスタイル)、洗濯機がカウンターに組み込まれることだけが必須条件で、それ以外は CI に沿ったインテリアでお任せしたのです。ナガオカケンメイ氏からイケウチ式オーガニックを語るには The BeatlesとTECHNICS 抜きには語れないということで現在のBGMのスタイルが決定しました。TOKYO STORE の開店は社名変更の2014年3月1日には間に合わず3月18日。KYOTO は同年9月13日となりました。
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IKEUCHI ORGANIC と称する限りレギュラーコットンの商品は作らない!ネームタグもオーガニックに!
社名を変えたことで、一般綿の商品のオーガニック化等々解決すべきものは山積みだったが、まあ、何時ものように、やりながら考えようのスタンスでスタートダッシュとなった。弊社定番の変更は、経営者の意思決定で対応できるが、BtoB商品では調整がつかない商品はお断りするという営業的には何とも無謀なスタートを切った。ブランドネームもオーガニックにしようとすぐ対応に走ったが、組合扱いの今治タオルネームタグのポリエステルはいかんし難く、弊社でコットンネームのサンプルを作成して提案したが、組合としては採用できないという裁定で、結局は弊社商品から今治タオルネームは外す事になった。
商品のトレーサビリテイを公表したい!織布工場から食布工場へ
2015年12月繊維会社として初めて食品会社としてISO22000の取得。タオルを食べ物としてみなしHCCAPに準じて生産をするという意思表示です。弊社が使用するBIOREのオーガニックコットンはGOTSの明確なトレーサビリテイ(綿畑から綿糸そして今治倉庫まで)が確保されています。今治に到着後は撚糸、糸加工、製織、生地加工、縫製、刺繍、検品等々、弊社内だけでなく産地内の多くの加工委託会社を経て商品が完成していきます。この間のトレーサビリテイを実現したいとデータの蓄積がスタートしました。3年間のデータ蓄積ノーハウをベースに2019年の新製品から2020年からは一部の縫製商品を除くタオル製品全般のトレーサビリテイを公開するQRコードが商品に添付されています。業界では未だ弊社だけと思います。
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IKEUCHI ORGANIC を欧米に導いた記念碑的モデル・ストレイツ220のQRコード
ミシン糸もオーガニックネームもタオルと同じオーガニック綿で内製する
純度の追求はどんどん進化します。最後の砦、タオルのミシン糸もオーガニック化すると言う無謀な計画は数年かけてのプロジェクトとなり2021年11月13日の生産以降、縫製糸も自社製オーガニックとなります。オーガニック純度は99.99あたりかな?
オーガニックネームも自社製オーガニック綿に替えようとなり2023年6月以降のネームタグは順次弊社支給オーガニック綿に代わりました。これで副資材まで弊社のタオルと同じのオーガニック綿となりました。仔細な部分までこだわる、これがイケウチ式オーガニック。
タオルメンテナンススタート
ストアでタオルを洗い続けることは現在の洗濯機や洗剤のあり方にも色々な疑問が出てきた。弊社3ストアでのタオル洗濯回数は既に8000回は超え何処よりもタオル洗濯の風合い維持に関してはノーハウを積んでいると自負している。2018年PANASONICからタオル洗濯の開発一緒にやりませんかと声がかかり2019年11月にタオル洗濯ポジション付きドラム式洗濯機が発売され、現行モデルまで必須機能として継承されている。そして2022年5月からは念願のタオルメンテナンスが始まった。自分たちが産んだタオルが数年から10年以上の経験を積んで里帰りしてくる様はまたモノづくりに新たな提案を投げかけている。弊社が1998年12月に決めた環境方針はより永く使えることが環境に最も優しいと規定しているが、夢が更に前進できたのです。
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終わりのない追及心の先に2073年に赤ちゃんが食べれるタオルが待っています。
世界最高峰の熱量と厳しい視線で見守っていただけるご愛用者に支えられIKEUCHI ORGANICは3月1日で10周年。本当にありがとうございます。人生もモノづくりも真っすぐ進まなくてもその寄り道を楽しみながら前進していきます。


# by keishi_ikeuchi | 2024-02-29 08:00 | Comments(0)
IKEUCHI ORGANIC のアップサイクル商品。その①_d0033692_10472198.jpeg
タオルはアパレルとやや違うが、同じ繊維製品であり、生産販売活動のあらゆる過程で必然的に時には過失で過剰在庫が生じてくる。これを如何にして減少させるか!繊維製品の大量廃棄が時としてマスコミを賑わす。その結果としてリサイクルコットンとかリサイクルヤーンが流行的に話題商品として取り扱われる。大量廃棄の過程で作られるリサイクル素材で再製造され、それが再び大量廃棄されるリスクはないのかな?などと野暮な心配すらしてしまう。
弊社は生産販売なので①製織前の加工糸の余剰在庫、②製織に伴う汚れや傷のB在庫③製品の過剰在庫の3種類が処分対象として存在する。今回は①について考察してみる。タオルに限らず生地の製織には必ず整経という前工程があって、この段階では綿密な計算と経験値で対応しても天然素材特有の曖昧さゆえ、弊社実績では約3%程度の残糸が必要悪として発生します。加えて人為的ミスとして色違いが発生することも。染色済みの加工糸の再利用策として残糸ストライプという商品はよく見かけます。発想的にはごく自然で当たり前だし、悪くはないが、一捻りしないと手間をかけて栽培してくれたオーガニックファーマーへのリスペクトがありません。ストレーツの初代モデルの頃は残糸をベースにグラデーションの縞で柄を表現するという手法を取り入れたものです。年間の加工糸の新色が2−3000色というクレージーな池内タオルハンカチ工場と揶揄された時代で残糸だけでグラデーションが表現できたのは25年も前の話で ORGANIC COTTON の現在ではあり得ない事です。タンザニアやインドの大地から真心込めて栽培されてやってきたオーガニックコットンは商品になってお客様の手元に届けて感動を与えて初めて役目を果たす訳で、倉庫の片隅に寝かすわけにはいかないのです。今回提案するアウトドアー志向のビーチタオルは加工糸として染められた20S 4色で構成されています。これは人的過失で染められたものです。IKEUCHI ORGANIC らしからぬピンク系2色、オレンジ系2色のこの子達を使ってお客様が満足できる企画はないだろうか!再利用だからと言ってお手軽な企画はコットンにもお客様にも失礼な話です。代表の机の前に置かれて何ヶ月も概ね一年近く眺めてアイデアを搾っていた。11月頃、立て続けに著名な来客二人に同じフランスのタオルを見せられた。質問も同じ、代表どう思いますか?代表ならこれに対してどんな回答しますか?誰もが知っている世界の超ハイエンドである。プリントは参りましたという感じなのにジャカードはイマイチだねなどの辛口を言いながら違うことを夢想していた。思い切りヘビーデユーテイでキャンプだろうが海辺だろうが逞しく使えるタオル。サーフボードだって巻けるし、砂浜に敷いても大丈夫、車に一枚あれば、仮眠だって出来る毛布、サウナチェアにも良いかな、ベッドシーツにも十分かも......毛布、敷物、そしてタオル。こんなコンセプトありかなと閃いた。2色を引き揃えて色に深みを出しながらタオルとしては極めて太いパイル仕様でがっしりと織っています。とりあえず、ほんの少し織ってみました。アップサイクル商品を再び残すと環境負荷の倍返になるのでゆっくり少しづつ様子見しながら提案します。ボーダーはこれでもかの不規則ボーダー。新しいコンセプトでアップサイクル商品の一つの提案をしてみました。先ずはWEB限定で発売開始します。
https://www.ikeuchi.org/c/upcycle/beachtowel




# by keishi_ikeuchi | 2024-02-22 15:44 | Comments(0)
先代が1953年に36歳で独立して71年。先代はタオル会社の息子として生まれているので、歴史を辿れば今治タオルの初期からタオルを家業としていたのだろうが、家業について、親と話したこともなかったし、1983年2月4日の葬儀の挨拶で新社長として本日から事業を引継ぐ池内ですと挨拶した程なので、引き継ぎは想像力と頭の中だけの試行錯誤であったが、素人社長の成長を温かい目で待ってくれたスタッフやお得意様、関係先の皆様そしてお客様があればこそである。
第1期(1953.2.11−1983.2.4)先代の30年
当時のお得意様はタオル問屋であり、現在のように最終顧客からは随分と遠い所でモノづくりをしていた。あくまでも想像だが、先代は独立するにあたって育ての親会社と販売先での競合を避けるために輸出専業タオル会社として独立したと推測している。特に最初の20年は完全な輸出専業であり、中東への販売からスタートし、ヨーロッパで認められ、販売をドイツ中心に欧州で成功を収めていたようだ。これらを背景に創業20周年で大胆に工場の生産設備を全面的に入れ替える大投資をしたが、完成と同時にオイルショックが生じ、円高の影響で欧州一辺倒から米国、豪州そして国内への販売もスタートさせたようで、私が受け継いだ30周年の時は輸出国内比率は逆転しており、国内シフトの真っ只中であった。欧州は壊滅状態であったが、まだ30%程度はアメリカ、オーストラリア市場が占めていた。国内では新入り扱いで輸出メーカーとしては辛苦の時代に突入していた。
第2期(1983.2-1992)コンピュータ化そして織機の革新化
タオルのイロハが全くわからない。輸出企業の社内ではポンドとインチ。タオル業界では尺と匁が基準の異世界でタオルの設計がわからない、原価計算のイロハもわからないのわからない事だらけ... クライアントの発注があっても基本設計が出来ない。営業責任者に聴けば、タオルの価格は重量で決まっているからそれで十分という訳のわからない話。いずれにしても設計は工場長の仕事であったがまだ卓上電卓しかない時代では半日がかり、修正依頼をすると又半日。せっかちな新社長としては、この設計をオフコンでやるしかないと判断してタオルに詳しいプログラマーを紹介してもらって、何とか型がついたのは1985年頃。これも宮﨑タオルの宮﨑専務の力添えがあっての事である。(ずっと後の弊社のオーガニック化においても常に先人だった業界で一目置く先輩であったがお返しをする前に若くして逝去された。)このオフコンは時間を見つけるとあらゆる設計シュミレーションの相棒をしてくれた最高の秘書であり相談相手。自分の頭の中には数マンのシュミレーションを叩き込むことが出来た。この時期、業界では革新織機の登場で生産形態の大変革の嵐でもあった。弊社は20周年事業で織機全てを当時の夢の織機と言われたTOYODA8を全台入れ替えた最新工場が一瞬にして過去の工場になった激変の時代。世の中はレピアブームの最中で資金のある会社はスイスのサウラー、少し遅れて日本製レピアという潮流。弊社はグリッパー織機のスイスSULZERERにジャカード搭載という業界ではあいつはやっぱり変人と言われる織機選択を行った。さらにジャカードを横駆動から縦駆動、ダイレクトジャカードに電子ジャカード、CADの投入と積極投資の時代となる。償却のため生産は2交代となり、とにかく販売拡大路線の時代を支えたのは日本のバブルが背景にあったことは否めない。
第3期(1993-2002)脱タオル問屋から異業種商社へ。そして自社ブランド設立。
1990年前後からベトナムのタオルの日本流入、今治タオル大手の中国進出など海外製品との競合が顕著になってくる。加えて弊社の商品は海外のタオル会社のショールームに行けばサンプルとして並んでいるという話を度々聴くに及んで現行ルートからの脱却を一気に本格化させる。弊社はすでにCADを自由に使いこなしており、弊社に織れ無いものはないと言えるだけのバックボーンを背景に異業種への参入となる。今では笑い話であるが、弊社もこの時期ドーハの悲劇に見舞われる。ワールドカップのメインスポンサーからスポーツマフラー50万枚の内定もらっていたが、一夜で消えたのです。今思うとこの事で容易に他業種への転換が出来なかったお陰でしっかりした商品開発をしてハンカチ業界に参入できたことが良かった。ハンカチ業界でメインブランドを数えきれないほど任されて、その収益をベースに自社ブランドを起こす体制が整い、1999年3月20日の第1回今治タオルフェアでオーガニック120を発表した。タオルハンカチで十分な収益があり、キャッシュフローも安定していたので、自社ブランドはモノづくりする人間にとっては理想系のような綺麗事で埋め尽くされたコンセプトで、販売は二の次であった。商品コンセプトは《最大限の安全と最小限の環境負荷》を掲げ、同時に販売方針は①直接販売②現金取引③永久定番という当時ではあり得ない夢物語を掲げた。1999年12月にはJapan Creationで単独ブース、2000年1月にはカルフォルニアギフトショーと展示会出展。アメリカでは予想外に直ぐクライアントが出来、年3回の展示会を実施。2002年4月には New Yorkへ拠点を移し、同時にNew Best Award を取得し、綺羅星のような取引先に恵まれ順調に滑り出す。勢いにのってNYに ikt New York の小さい事務所まで設置する。
第4期(2003−2012)二足の草鞋を捨て自社ブランドで生きる
2003年1月31日第156回小泉首相施政方針演説で少し弊社の事に触れた今治タオルの紹介があった。その時、代表はNYのABC Carpet & Home の商談に移動中。JFケネデイ空港で取材を受け、3泊5日で成田に帰るとニュースステーションのクルーが待ち受けていた。
https://worldjpn.net/documents/texts/pm/20030131.SWJ.html
その日から長期取材を受け5月20日に環境立国・風で織ったタオルとして20分の特集が組まれた。自社サーバーに何人くらい入ってくるかなと気楽に見ていたところ始まって数分でサーバーはダウン、翌朝からは何日も電話は鳴り止まず、その後は手紙の山という状態。国内取引の商談も全国からオファーをいただき、弊社の取引条件を容認してくれる100数社と契約となり、秋商戦の9月10日からの販売開始と決定しました。こんな調子で浮かれている8月末にタオルハンカチの取引先が突然の自己破産、弊社も動きが取れず9月9日民事再生、9月10日債権者会議という事態に。債権者会議の途中、迷惑かける加工委託先から心配しなくても支えるから東京へ飛んで取引先に事情説明に行くようと促される。ジェットコースターのような人生で中々、通常ではできない経験も積んで、沢山の方の応援で今日があります。タオルを何枚買えば助かりますかと支えてくれたフアン、そして心配するなと支援し続けてくれた関連会社やステークホルダーの皆様の賜物です。二足の草鞋で神の怒りをかったと反省し、自社ブランドで再生すると決意したことがIKEUCHI ORGANICの誕生に繋がりました。
第5期IKEUCHI ORGANIC の誕生は次回。


# by keishi_ikeuchi | 2024-02-09 17:00 | Comments(0)
3の提案が重なって没企画から復活して14年目。コットンヌーボー誕生のお話し。_d0033692_11364297.jpg
2023年秋摘みのタンザニアオーガニックコットンのみでつくりあげるコットンヌーボー2024。このプロジェクトは2010年の初春にデザイナーの佐藤利樹と弊社の阿部から提案された“ワインのように楽しむタオル”が始まりです。綿花の出来不出来を楽しむコンセプトは一見、面白そうな話であるが、綿糸はそういう作り方をしていないのです。元来、オーガニック綿糸は数年分の綿をブレンド、一般綿は各地の綿をブレンドして作ることで年度毎のバラツキを平準化しています。単年度の綿をしかも超特急で紡績する事は常識ではありえない話ですし聴いたこともありません。綿は農作物ですので、品質は安定しているわけでなく、品質が劣る年はどうする?今年の綿は出来悪いですが商品を楽しんでと販売することは出来ないのです。デザイナーやプランナーの思いつきだけで商品は作れないとその場で却下した提案であった。ところが、世の中、不思議な物で奇跡が重なり、コットンヌーボーの企画は復活、とんとん拍子で進行するのです。弊社のオーガニックコットンの供給先であるREMEI社からタンザニアのオーガニックコットンを日本へ初導入したいので相談にのって欲しいと突然というか必然のようなオファー到来。インドのオーガニックだけでは供給が不安定なのでタンザニアの契約畑の綿も導入したいのだが、どのクライアントも要望を聴いてくれない、弊社で何とか検討して欲しいという話だった。全てのクライアントにノーと言われたら、やる気満々の気質だし、COTTON NOUVEAU をデビューさせるには最適野素材であると考えた。提案の綿糸はタオルにはややストロングな触感だったので、弊社の仕様で紡績して、単年度の綿花で紡績してくれるならと要望すると、日本導入したい一心のREMEI社は何とかしましょうと合意、一気に話は進んだ。綿糸のオリジナル仕様となるとロットも半端ではないのだが、初年度は3トンで32S単糸を紡績してくれることになった。特注糸を3トンで作るのは異例の好条件であるが、とはいえ、キャッシュフローに大変苦しんでいる時期で、当時は簡単に用意できる金額ではなかった。同時期、今で言うクラウドファンデイングに近い手法だがミュージックセキュリテイからお客様にこのコンセプトを説明して資金を調達したらどうかと提案を受け、無事スタート出来たのです。2010年頃、クラウドファンデイングという言葉もない時代でしたが有難いことに弊社のフアンの皆様の支えで即座に資金は集まり発注が出来たのです。3トンで始まったタンザニアオーガニックコットンが今では何十倍にもなり、綿花栽培の中心になるとは夢にも思いませんでした。2011年2月に商品は無事完成し、タオル業界では異例のプレス発表、お客様を招待しての新製品発表会とあいなるのです。発表会場で、代表は興奮して、このタオルで生湯を使った赤ちゃんが成人する2030年まで続けますと公表し、さらにこの綿花を作ってくれたタンザニアの農家にタオルを届けますと宣言してしまったのです。このコットンヌーボーも今年で14歳に成長しています。そして、この年、ボジョレヌーボーの日をコットンヌーボーの日と設定し、REVIEW2011・PREVIEW2012を開催し、現在まで続く大イベントとなっています。例え素材の出来不出来があったとしても、その個性を活かす事がモノづくりの技と社内にプレッシャーをかけ続け、年々、改善を続けるコットンヌーボー。さて今年の出来は《驚くほどのしなやかさと力強さを秘めた柔らかさ》が代表のインプレッションです。是非、創業記念日祭の始まる2月10日に店頭で確かめてください。
ps 2011年8月にはタンザニアの綿農家にコットンヌーボーをお届けしたのですが、タオルを見るのも、自分たちが作った綿花でできた商品を見るのも初めてのことでした。
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# by keishi_ikeuchi | 2024-02-02 17:50 | Comments(0)
TOYOTAを創り上げた創業の豊田自動織機が本業でない自動車部門の不祥事で豊田章男会長が長時間の記者会見を受けている。このことは別として豊田佐吉氏が発明したG3が世界に衝撃を与え現代の織機の基本を示したのが1924年。100年前の話である。横糸を送るシャトル(杼)を自動交換する無停止杼換だけでなく、横糸や縦糸が切れると織機が止まるという横糸切断自動停止、縦糸切断自動停止装置が装備がされている。当時、夢の織機と言われ、豊田自動織機は日米中で販売するだけでなく、英国ではライセンス生産され欧州でも販売され世界の織機を制覇する。以来、100年このG型がベースとなり、世界の織機は高速化と広幅化の革新が続く。生産性は織機スピード*織機幅で決まる。織機スピードを上げるために杼は小型、軽量化しレピア、グリッパー、そして現時点では遂にエアーで横糸を送り出している。スピードを上げる段階でSULZERがチーズから直接横糸を入れる方法を発明し、現在の標準となった。レピアは扱いやすさやで普及したが、杼の軽量化の点に限界があり、タオル、毛織物などの希少分野のみで重宝される存在と化している。織物織機の自動化の歴史を創ってきた豊田自動織機の歴史を具体的に確認できるトヨタ産業技術記念館には機会あるごとに訪問し勉強しているわけである。何度、訪問しても感じることは少なくとも織機の歴史は20世紀を持ってグリッパーとレピア織機の終焉を沈黙の中で語っている。あくまで推測だが、グリッパーを一つの完成形としてTOYODAは技術提携しSULZERの独占販売をしてきた。1980年代タオル業界ではレピアこそ革新と言われる時に代表は業界に入り、大方の反対を押し切ってSULZERのグリッパー織機にジャカード搭載という挑戦に踏み切った。代表の頭ではレピアは過去の物であった。レピアは杼の小型化という面では明らかに歴史に逆戻りする構造である。改めてトヨタ産業技術歴史館で眺めると彼らは決してレピア織機を作る事はしていないのである。資本傘下の関連会社に開発販売させるだけでTOYODAやTOYOTAの商標を入れる事はなかった。グリッパー織機をメインにする弊社がTOYODAの技術提携先のRUTIのレピアをパリの技術展で見て一目惚れで日本に強引に持ち帰ったのだが、RUTIのレピアは後にも先にもこの初回導入だけと念を押されていたが、何故か今治産地ではブームとなり、タオル織機の名器として数多く導入されている。そのブームの最中、TOYODAはSULZER,RUTIとの提携を解消、着々とエアージェットを開発、世界に新時代の到来を告げたのである。今、振り返るとこのRUTIの日本導入は消えゆくレピアを中途半端に延命させただけだったかもしれないと思い返さざるを得ない。当時、TOYODAからはRUTIの見るべき技術はエアーであり、レピアではないと囁かれた言葉を思い出す。21世紀になりTOYODAは車と同じTOYOTAになりエアージェットのみを提供する織機メーカーとなった。TOYOTAのエアーは他社に比べ決して早い市場導入ではなかったが、彼らが世界一と評価したRUTIのエアーを十分研究し、それを上回る商品開発で再び、世界をリードするトップに立っている。そしてSULZER,RUTIはイタリアの織機メーカーに統合され、そのブランドは消えた。タオル織機は織機の中でも縦糸ビームが上下2本ある特殊織機で限られた織機にのみタオル用が存在するのである。今や世界でもレアとなったレピアのタオル織機に触手を動かす保守的な自分と、もう過去とは決別すべきという自分が存在している。歴史観に立ち寄るたびに迷うあなたの判断が理解できないと歴史に囁かれている。
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# by keishi_ikeuchi | 2024-01-30 17:07 | Comments(0)